中絶によって犯罪率は低下するのか
今回はデータの話である。私たちは今、様々なデータが飛び交う情報社会に生きている。そして同時に、その様々なデータを分析する事によりより良い社会を作っていこうという試みが今注目を浴びている。そして、同時にこのデータ解析により本当に様々な驚くべき結果が報告されてきている。
さて、皆さんは2007年に発売され、異例の大ヒットを飛ばしたシカゴ大学の教授スティーヴン・J・ダブナー著の『ヤバい経済学──悪ガキ教授が世の裏側を探検する』という本をご存知だろうか? この本は様々な事例をデータ分析の観点から解析していく。そして、その中でも特に有名なのが「中絶は犯罪率を低下させる」という論である。詳しく見ていこう。
彼の主張は、アメリカで中絶が合法化された事で犯罪率が低下したというものだ。詳しくは実際に『ヤバい経済学』を購入して貰うか、「中絶 犯罪率 低下」辺りで検索すれば出てくるであろうが、要約するならば「中絶の合法化により、育児放棄や経済的観念から犯罪に走りやすい子供たち――所謂「望まれない子」が生まれなくなり、犯罪率が減った」というものである(注1)
実際に論文に使われたデータ画像と共に見ていこう。まず、下の画像を見てもらいたい
1973年の1月22日に起きた「ロー対ウェイド事件(注2)」の判決により、アメリカはそれまで幾つかの州でしか合法とされていなかった中絶が全州で合法となった。そして、この事件により中絶をする女性が格段に増えたのだ。
さて、画像の殺人(Murder)の部分を見てみると、アメリカの殺人発生は事件から17~18年たった1990年前半(1991年辺り)にピークに達し、それ以降減少傾向になり中絶は犯罪人口を減らしたと示唆されている。他の部分を見ても、ほぼ同等の認識が可能だろう。
その他様々なデータを調査し、彼は「最近の犯罪率の低下の50%は、中絶が全州で合法になったからだ」と結論づけた。中絶と犯罪率――それは意外な繋がりであり、そしてこの主張は挑発的、まさに「ヤバい経済学」だと言えるだろう。データ分析から思わぬ関連性が見える事例である。
・・・・・・と、ここまでが前振りだ。言い換えるならばここからが本番である。さて、ここまで読んで皆さんはどう感じただろうか? まあ、確かに面白い話ではある。もし、これが本当ならば中々ショッキングだ。しかし、本当に「中絶が犯罪率を低下させる」のだろうか。中絶により、望まれぬ子が生まれなくなったというが、見方を変えてみるならば中絶をする親は自分の将来を見据えられる確りした親とも言えるのではないか。むしろ、「育児放棄」などする親はまず「中絶しよう」というまともな考えが出てくるのだろうか。その他にも、様々な疑問が湧いてくる。
それではその疑問の真偽をはかるべく、更に深く調べて、データを漁っていくとしよう。次の画像は10歳から15歳の殺人発生率を表している(注3)
ロー対ウェイド事件の判決により中絶が合法化された年の後半(1973年後半)に生まれた子供たちが15歳になった時――つまり1988年後半を見てみる。すると、殺人発生率は上昇傾向にあるのだ。そして17歳になった1990年も上がっている。1990年と1984年で比べると一目瞭然である。1984年の人達が生まれた時にはまだ中絶が合法化されていなかったにも関わらずだ。
また、上の図(注4)を見てもわかるが、2005年辺り――つまりロー対ウェイド事件による影響を最初に受けた人達が30代前半になった時の犯罪率は増加傾向になった部分が見て取れる。
これらは先程の彼の主張にそぐわない。
そして何より、上図の1990年代の部分を先程の10~15歳の殺人発生率の図と照らし合わせて欲しい。どちらも、1990年代でピークを迎えており、そこから減少傾向に陥っている。上図の「米国犯罪件数の推移」のデータは年齢が関係ない(=中絶の合法化前に生まれた人たちも含む)のにだ。つまり、言い換えると「中絶の有り無しに関わらず、アメリカでは1990年代に犯罪の発生率はピークを迎え、そこから減少している」となる。どう考えても中絶の合法化が犯罪率の低下の50%をしめているとはこれだけでは言えないのが現状だろう。
データというものは確かに強力な武器である。しかし、それはあくまでも正確なデータを正確に入力し、正確に読み取った場合の話だ。どこかで1個でも間違えるとそれは途端に嘘になる。様々なデータが飛び交い、データの重要性が高まっている今だからこそ、きちんと知識をつけることが重要である。・・・・・・そうでない人は、簡単に騙される。
因みに、私のデータに関する最近のおすすめ記事はボルボラ氏のブログ、『ボルボラのブログ』の「日記 vol.028 がんにかかりやすい地域はあるか?(日経新聞のバカな記事を通して)(注5)」とそれの補足「日記 vol.032 日経新聞『がんにかかりやすい地域』のさらなる駄目さ(注6)」である。こういった記事を読み「データを読む」能力を高めていくのはこれからの社会でかなり重要な事ではなかろうか。
注2︰アメリカで起こった中絶に関する女性の意思決定に関する事件及び判決。Wikipedia→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E5%AF%BE%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
注4︰図録 米国の犯罪件数の推移より→http://honkawa2.sakura.ne.jp/8808.html
注5︰日記 vol.028 がんにかかりやすい地域はあるか?(日経新聞のバカな記事を通して)→http://blog.livedoor.jp/ronka/archives/54870901.html
注6︰日記 vol.032 日経新聞『がんにかかりやすい地域』のさらなる駄目さ→http://blog.livedoor.jp/ronka/archives/54875317.html
何故人を殺してはいけないのか
「なぜ人を殺してはいけないんですか?」
「殺してOKにしたらお前も死ぬからな」
ここで「俺が殺されるわけねーじゃん」と考えるのがDQN
ふとTwitterのタイムラインを徘徊していたらそのような旨のツイートがまわってきた。まあ、言わんとしている事はわからないでもない。しかし、これに違和感を覚えない人もどうかと私は思う。
「何故人を殺してはいけないのか」
そう尋ねられた時、どのくらいの人が理屈でもって、順序だててこの問いに答えられるだろうか?
まず最初に出てくるのは「法律で決まっているから」だろう。多くの人がこう言うと思われる。......しかし、社会学を学んだ事がある人ならわかるだろうが、この答えに100点は到底つけられない。少し前の戦争をしていた頃の日本では、敵兵を殺すことは法律で禁止されていなかった。また、海外に目を向けるとイスラム法では復讐のための殺人が許される場合についても定められている(今では大部分で近代法が制定されて違法になるが)。法律というものは時代や場所によって大きく異なるものである。「法律で決まってるから」だけであれば納得いかない人もいるだろう。
では、先程のツイートのように「殺してOKならお前も死ぬからな」つまり「人を殺してよいなら自分も殺される可能性があるから」などという理由はどうだろうか? これもまた十分ではない。だったら殺されないように武装したり、徒党を組めば良いのか、となってしまう。
該当ツイートリプ欄を見てみると、どうやらサカキバラ事件の時に大江健三郎が「そういう質問自体が良くない」などと答えていたらしい。この話の真偽はわからないが、これも良くない。というか0点だ。質問の回答になっていない。もし、「そういう質問自体が良くない」のならそれこそ理屈を持って何故その質問自体が良くないのか説明し、その上で「何故人を殺してはいけないのか」をきちんと教えるべきではなかろうか。「そういう質問自体が良くない」という回答が許されるのであれば、ありとあらゆる質問全てにそう返せるだろう。「殺人は悪いものだから、やってはいけない」という考えが元にあるのだろうが、「殺人は悪いものだから、やってはいけない」という論は「循環論法(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AA%E7%92%B0%E8%AB%96%E6%B3%95)」と呼ばれる詭弁でしかない。
他の0点の回答に「それくらい常識だろ」や「ダメだからダメ」がある。これはもう説明しないでも暴論であるとわかる。......なお、これらもリプ欄にあった回答だと補足して置こう。
では、そろそろ「何故人を殺してはいけないのか」という問いに対する説明をしていこう。日本の法律において人を殺すことは刑法199条にて「殺人罪」とされ、罰則規定がある(緊急避難などの例外は除くものとする)。つまり、何故人を殺してはいけないのかというと、「人を殺すと自分自身に罰則規定が適用され、更に今の社会の道徳観念から見ても非難され、社会的制裁を受ける(=自身に不利益が生じる、損をする)から」というのが正しいだろう。逆に言えば「バレなければ人を殺してもよい」と言えるし、「自身の不利益をわかったうえで行われる人殺しはとめる事が出来ない」とも言えるのだ。
例えばナイフを自身の足に向けて振り下ろすと怪我(損)をする。だから、人は普通はナイフを自身の足に向けて振り下ろしたりはしない。しかし、怪我をしても構わないのならナイフを自身の足に向けて振り下ろすのはダメな訳ではない。その人の自由意志に委ねられる。結局この質問の本質は、このナイフの理屈と同じ事なのである。
該当ツイートのリプ欄をみると、まともな論理的思考を持つ人達による、これと同じような内容のツイートも見れた。しかし、その倍以上の人が「常識だから」「ダメなものはダメ」などというおかしい理論を用いて、さもそれが「理屈にかなっている」のであるかのように振舞っていたのだ。更に「そんなくだらん質問をやる奴は多分両親とかいない奴なんじゃね」などという論拠不明のレッテル貼りまでする始末。当たり前だが、レッテル貼り、個人攻撃というものは論理学的にみると明らかな「詭弁」である。私から言わせてもらうのであるならば、「その程度」の「理屈になっていない理屈もどきの暴論」で語っている方々とこのツイートで非難の対象になっているDQNは何ら本質は変わらないものだと思うのだがどうであろうか。
話はズレるが、「死刑制度の有無」に関しての論争も面白いものがある。容認派も否定派も様々な意見があり(抑止力的観点や冤罪の有無など)同じ「容認派、否定派」でもその理由は正反対のものである場合などもある。気になった方は調べてみたらどうだろうか。個人的に否定派ならば呉智英の「死刑制度は自然権である復讐権を奪っている。だから死刑制度を廃止し、仇討ち制度を復活させるべきである」という論はその如何はともかく、最初に知った時には中々面白いものだと感じたものだ(詳しく知りたい方は氏の著書である「猿の正義」をおすすめする)。
「あくまでも私の考えですが」という戯言
よく聞きますね、こういう言葉。「あくまでも私の考えなんだからお前に何か言われる筋合いはない」「勝手にお前の意見や価値観を押し付けるな」という風に持っていくために使われます。
まずはっきり言っておきますが、あらゆる主義主張は「あくまでも私の考え」であり、「押し付け」以外の何物でもありません。こっちからすると「あくまでも私の考えなんだからお前の価値観を押し付けるな」という言葉こそ、最高の「押し付け」でしょう。
この言葉は「私の考えは批判される覚えがないが、お前の考えは間違っている」との暴論にまで繋がることがあります。「あなたの考え」だろうがなんだろうが、間違っているものは間違っているし、論拠に乏しいものは乏しいものなんです。本当に価値観が人それぞれならば、あなた自身に対するありとあらゆる批判もありうるという事は当たり前の事実なのです。
最近は「価値観」というものを大切にする風潮があります。「価値観の尊重」とはつまり、「どの価値観も肯定される」という事ではなく、「どの価値観も無下に扱われず、精査の対象となる」事を指して言っているのです。あいつが嫌いだからあいつの意見(価値観)は無視する、ではなく「人は様々な価値観を持っているからこそ、それらを比較、精査し、より良い結果へと持っていく」という意味で「価値観の尊重」という言葉が使われるのです。「精査の対象になる」だけであり、「誰しもが価値観を持っている。そして、それは全て真であり、肯定される」訳ではありません。
「押し付け」が嫌なのであれば、そもそも主張などせず、黙っておけば良いでしょう。議論とはその「押し付け」をわかったうえで、その内容の真偽や妥当性を求めるものなのです。しかし、「押し付け」が出来ない人は「その程度の主張しか持っていない(=自身の意思による確固たる主張が無い)」と捉えられても致し方ありません。
......とは言いつつ、私はよく「私の考えですが」的なことを良く言いますが。だって言うだけお得ですからね、この言葉。最後に「価値観の違い」なんて最もらしい所に落とし込めるのですから。逆に、相手が「私の考えだから」とか「価値観は人それぞれ」とか言ってきたら上記で説明した通りの事を言えば良いでしょう。
因みに類義語に「主観」などがあります。相手の意見が気に食わないと「あなたの意見は主観だから信用出来ない」とか言いつつ、何か批判されると「わたしの意見は主観だから批判される覚えはない」と言い始める。都合良すぎませんかね?